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6月12日お誕生日の有名人:松井秀喜様

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松井秀喜様 お誕生日おめでとうございます。

松井 秀喜(まつい ひでき、1974年6月12日)は、
石川県能美郡根上町(現:能美市)出身の元プロ野球選手(外野手)。
右投左打。現役引退後はニューヨーク・ヤンキースGM特別アドバイザーを務める。
血液型はO型。

1990年代から2000年代の球界を代表する長距離打者で、
日本プロ野球(以下:NPB)では読売ジャイアンツ、メジャーリーグベースボール(以下:MLB)ではニューヨーク・ヤンキースなどで活躍した。
2012年引退。2013年には国民栄誉賞を受賞。
愛称は「ゴジラ」。

経歴
プロ入り前
1974年6月12日に、瑠璃教会二代目司教である父・昌雄と母・さえ子の二男として生まれる。
生まれたときの体重は3,960グラムであった。
3歳で自宅近くの保育園に入園。保育園史上最大の園児と言われた。
当時の保育園の先生は「8歳ぐらいに見えました」と語っている。

体格が一際大きかったため、根上町立浜小学校1年生の時に3年生以上で構成される軟式野球チーム
「根上少年野球クラブ」に特別に入団させてもらったが、まだ幼すぎて監督の指示などが理解できず、一旦野球をやめてしまった。
4年生の時に父から再入団を勧められるが、幼少時のショックは大きく、拒否している。

しかし、野球に打ち込む3歳上の兄に触発され、小学5年生の夏休みに再び軟式野球チームに入り、本格的に野球を始めた。
その頃から、既にプロ野球選手を夢見ていた。
元々は右打ちであったが、あまりにも打球を飛ばす為に野球仲間であった兄とその友人が松井を打てなくする目的で強引に
「尊敬する掛布雅之選手(当時は阪神タイガースファンだった)と同じ左」で打つように勧められ、左打ちに変更した。
これが運命の左打ち転向であった。
小学3年からは町の少年柔道教室にも通い始める。
能美郡大会で優勝、石川県大会では3位に入り、国体強化選手にも選ばれていた。
松井は「野球よりも注目されていたんです。
立ってよし、寝てよし。石川県では結構、強かったんですよ」と自慢している。
柔道の他に、わんぱく相撲大会でも活躍していた。
これらスポーツでの活躍のほか、実家のピアノも演奏する。

中学校への進学にあたって、柔道を続けるか悩むこともあったが、能美市立根上中学校に進学して野球に専念するようになった。
根上中学校には野球部があるものの、
柔道部がなかった(当初は、野球での部活動の後に柔道場へ通う案も提示されたが、
取り組む種目を一本にして集中したいという本人の希望もあったため)ということが野球への道を選択した大きな決め手となった。
中学入学時で身長は170cm、体重は95kgに達していた。
中学時代は捕手をつとめ、2年夏から投手に転向した。通
算打率は6割を超え、3試合連続本塁打も放ったことがある。
3年生になると飛距離は130mにも達し、軟球を割ることもしばしばあった。
代わりのボール代だけでも半年間で10万円を超えることになったという。
その一方で、中学1年の時には能美郡相撲大会に出場し、個人戦で優勝。
根上中野球部でも「関取」「相撲取り」などのあだ名で呼ばれていた。
当時の野球部コーチ・高桑充裕は多くの松井の野球の師の中でも特に厳しかったことで知られており、
アッパースイングだった松井に王貞治を手本にしたダウンスイングを指導したり、
試合で敬遠されたために怒りの感情を露わにした当時の松井を、試合中でも激しく殴打し諌めたというエピソードがある。
また、高桑は星稜高校野球部卒であり、松井の先輩であり、同校の監督であった山下智茂の教え子の1人でもある。

中学時代から衛星放送でメジャーリーグの試合を熱心に見るようになった。
その当時に憧れていた球団は、当時ホセ・カンセコ、マーク・マグワイアらを擁して黄金期を迎え、
後に松井自身が入団することになるオークランド・アスレチックスだった。
自由民主党所属の衆議院議員である佐々木紀とは2年1組で同級生 。

高校は星稜高校に入学。
既に松井の実力を高く評価していた星稜高校監督の山下からの熱烈な勧誘や、
中学野球部監督やコーチの高桑らに薦められ、また、根上中学校から星稜に進学した先輩と相談した結果、星稜に進学することに決めた。
「野球は大学までやらせてもらえれば」という程度だったが、高校時代に打者として注目を浴びるにつれて、高校を卒業してプロ入りする思いが強まっていったという。

投手として入部したが、すぐに野手(一塁手)に転向。その後、三塁手に転向する。
星稜高校の入学式前から野球部の練習に参加し、他校との練習試合では「4番・三塁手」で出場してヒットを放った。
1年生から4番打者を務め(5番は3年生の村松有人だった)
「北陸の怪童」「星稜恐怖の1年生4番」として徐々に野球関係者の間に知られていき、
本塁打もこの頃から推定飛距離で140mを超すものもあったが、
夏の甲子園では初戦の対日大鶴ヶ丘戦で難波投手に3打数0安打で押さえ込まれチームは初戦敗退し、
「甲子園は怖いところです」というコメントを残している。
しかしながら、対戦した難波投手は打ち取ったものの、第3打席の外野の最も深い場所へ大飛球を飛ばされ、
「あの(難しい)球をあそこまで飛ばすのか」と、松井の怪物の片鱗を見たと後にコメントしている。
秋は北信越大会で松商学園に敗れ、選抜出場を逃す。

高校2年の夏の甲子園の初戦(2回戦)の市立沼津高校戦では、松井の走塁で市沼津をかき回し接戦に勝利。
3回戦の竜ヶ崎一高校戦でライトスタンドに甲子園初本塁打を放った。
準々決勝では松商学園に勝利して北信越大会の借りを返す。
夏休みに部内で体力測定を行った際、背筋力250kg、バーベル上げ150kgと、関係者曰く「清原和博以来の数値」を出した。
新チームでは監督の山下にキャプテンに指名される。
星稜では毎年キャプテンは部員による投票によって選んでいたが、
山下が松井の統率力や影響力を高く評価していたため、特例として任命したのだという。
秋の明治神宮大会では優勝した。
また、高校生選抜チームに2年生としては三沢興一(帝京高)と共に選出され、
1年先輩で後にプロ入りした高木大成・大野倫・萩原誠等にその怪物ぶりを賞賛されている。
大野は雑誌のインタビューで「星稜の松井は怪物」と答え、
萩原はこの年の高校生打者のドラフトの目玉とされていたが、
「自分のホームランなんて松井に比べたら大したものではない」とのコメントを残している。

高校3年春のセンバツでは、阪神甲子園球場のラッキーゾーンが撤去されて本塁打が激減したにもかかわらず、
「僕には関係ありません」という言葉通りに、開幕試合である初戦の宮古高校戦で2打席連続本塁打、
1試合7打点、2試合連続本塁打と、当時の大会記録をマークした。
2回戦で堀越高校のエース・山本幸正から難しいカーブを本塁打したのを長嶋茂雄が見ていたのがきっかけで巨人入りしたという話もある。
しかし、準々決勝の天理高校戦では本塁打は出ず、自らのエラーもありチームは敗退した。
夏の甲子園は2回戦の明徳義塾高校戦で敗退。
この試合で松井が受けた5打席連続敬遠は、高野連が急遽記者会見を開くなど、社会問題にまで発展した。
明徳義塾監督の馬淵史郎は試合後、「(星稜の練習を見て)高校生の中に一人だけプロの選手が混じっていた」とコメントしている。

高校通算打率は.450、本塁打は60本。
高校通算60号は国体の尽誠学園戦の第4打席、高校最終打席で記録。
ちなみに、「柵越えしたものがホームラン」という松井のこだわりから、ランニングホームランは数に含まれていない。
ライナー性の弾道で甲子園球場のバックスクリーンに運ぶ並外れたパワーや、
打撃練習であまりにも柵越えを連発するため練習場のライトフェンス後方に特別のネットが取り付けられるなど、
桁外れの話題性から「20年に1人の怪物」と言われていた。
9月には韓国・ソウル で行われた日米韓3国親善高校野球大会に日本代表の一員として出場した。
松井は米国側からも大きな注目を集めており、同大会に米国代表として出場していたトリー・ハンターは、
「まず驚いたのは彼は高校生なのにあり得ないくらい大勢のマスコミを引き連れていたことだ。
当時ボクは16歳でマツイは17歳。
その高校生を巡ってロックスターを取り囲むような騒ぎになるなんて、一体どんな怪物?だと思っていた。
それがマツイだったんだよ」と語っている。

ドラフトの目玉となった松井には報道陣が殺到し、11月になると星稜高校の校門前に毎日多くの記者やカメラマンが待機するようになった。
「このままドラフト本番を迎えれば、えらい騒ぎになる」との声が地元で上がり始め、ドラフト前には異例の「報道規制」が敷かれた。
ドラフト前には憧れの球団である阪神タイガースに加え、読売ジャイアンツ、中日ドラゴンズ、福岡ダイエーホークスを希望チームとし、
その他の球団から指名された場合は駒澤大学へ進学することをほのめかした。

巨人時代
1992年11月21日に行われたプロ野球ドラフト会議では前述の4球団から1巡目指名を受け、
抽選の結果交渉権を獲得した巨人に入団。
契約金は1億2000万円。
年俸は720万円。背番号は「55」。
松井の交渉権を引き当てたのは13シーズンぶりに巨人監督に復帰したばかりの長嶋茂雄。
当時の松井は阪神入りを熱望しており、ラジオで交渉権が巨人に決まったことを知ると、記者会見で複雑な表情を浮かべ、
「阪神に行きたい、という希望がありましたから。まだ整理もついていないけどその気持ちも次第に薄れていくと思う」と語った。
その後、長嶋から直接電話を受けて感銘を受け、すんなり巨人入りを決めた。
阪神ファンである彼の気を引くために、長嶋は監督就任会見の前に旧知の記者に
「星稜高校の松井秀喜選手が大いに注目されていますが、監督はどうお考えですか?」と質問するよう頼んでおき、
「ほしいですね、この手で是非育ててみたい逸材です」と答えた。
これを自宅のテレビで見た松井父子は興奮し、巨人入りの意思が高まったという。
なお、この年のドラフト会議で、当初巨人フロントは松井ではなく伊藤智仁を指名する予定だったが、
長嶋が松井の獲得を熱望したため松井指名に切り替えている。
入団会見で他の新人選手が抱負として憧れの選手名や具体的な成績目標を述べる中、
松井は「サッカー(Jリーグ)や相撲(若貴ブーム)に小さな子供たちの関心が傾きつつあります。
その中で僕はその子供たちに夢を与え、球場に直接見に来てもらえるような選手になれるよう頑張ります」と述べた。

1993年、プロ初のキャンプでは150メートル級の場外弾を連発。
キャンプ2日目にはフリー打撃で13本の柵越えを放ち、「こんな高校生、見たことがない」とコーチに言わしめた。
高校時代は三塁手であったが、長嶋は外野手へとコンバートした。オープン戦に7番で出場するも、プロの投球の速球に手こずり、三振と凡打の山を築く。

オープン戦は53打数5安打、打率.094に終わり、20三振は全体トップだった。
4月7日に長嶋から二軍落ちを通告され、公式戦開幕は二軍で迎えた。
二軍落ちを通告された際には、「落としたことを後悔させるように頑張る」と語り、
その宣言通り、イースタン・リーグの開幕戦で松井と同期新人の伊藤智仁からホームランを放つなど12試合で.375、4本塁打の活躍を見せ、
5月1日のヤクルトスワローズ戦(東京ドーム)で「7番・左翼手」として一軍デビューを果たした。
初打席は西村龍次からセカンドゴロ。
2打席目には同じく西村からライトフェンス直撃の二塁打を放ち、初安打初打点を記録。
翌日の試合では、9回裏に高津臣吾から内角の直球をライトスタンド中段に運びプロ入り初本塁打。
興奮の余り、試合後ロッカールームから引き揚げる際、足元はスリッパのまま「打っちゃった」と喜びを露わにした。
その後は各球団のマークに遭い、6月には二軍に降格するが、8月下旬に再び一軍に昇格するとヒットを連発し、
セ・リーグ高卒ルーキー新記録となる11本塁打を放った(パ・リーグの高卒ルーキー記録は1986年の清原和博による31本塁打)。
オフの契約更改では1060万円増の1900万円でサイン。目標の2000万円には届かず、会見では渋い表情を見せた。

1994年4月9日に行われた広島東洋カープとの開幕戦で2本塁打を記録し、4月には自身初の月間MVPを受賞した。
同年のオールスターゲームではセ・リーグ史上最年少で4番を打った。
中日ドラゴンズとのリーグ優勝を賭けたシーズン最終戦「10.8決戦」でも本塁打を放つなどチームのリーグ制覇に貢献。
迎えた日本シリーズでは西武ライオンズを破りチームは日本一、自身も2年目で20本塁打を記録した。

1995年は22本塁打を放ち、初のベストナインを受賞。
8月24日の横浜ベイスターズ戦でレギュラーシーズンでは初の4番を任された。
ヤクルトが最高勝率・マジック1で迎えた9月30日に明治神宮野球場で行われた試合では9回裏二死で打席に立ち、
その年の最優秀バッテリー賞を受賞するテリー・ブロス及び古田敦也にセンターフライに仕留められた。
この年のオフには、苦手な内角球を克服するために、身体に当たりそうな極端な内角球を打つ練習を行った。
その甲斐あって、翌年から成績が飛躍的に向上することになる。
後に、松井はこのシーズンオフが野球人生のターニングポイントだったと回想している。

1996年は自身初の開幕4番スタートだったが、5月からは落合博満が4番に返り咲き、松井は3番に戻った。
その後チームの上昇と共に成績も上昇し、夏場には7月、8月と2か月連続で月間MVPを獲得するなど、大逆転優勝に大きく貢献。初のセ・リーグMVPを受賞した。
リーグ最終戦まで山崎武司、大豊泰昭と本塁打王を争っていたが、
山崎に1本リードされて迎えた10月8日シーズン最終戦の中日戦では長嶋の配慮で自身初の1番打者として出場したが、
4打席すべてで敬遠されてタイトルを逃した(結果は山崎が39本で本塁打王に輝いた)。
観客席の巨人ファンからは罵声が飛び交ったが、松井自身は「しょうがない。タイトルを取れなかったのは、悔しいけど、
(高校時代の)五打席連続敬遠の方が悔しかった」と、比較的サバサバした様子だった。
それでも、22歳での38本塁打は王貞治に並ぶ年齢別最多本塁打記録。
また、同一投手からのシーズン最多本塁打のタイ記録の7本塁打を斎藤隆から放った。
この年の斎藤隆との対戦成績は25打数7安打で、安打のすべてが本塁打であった。
最終的に130試合に出場し、打率3割1分4厘、38本塁打、99打点の成績を残した。
この年は日米野球に出場し、敬遠されたことでも話題になった。
尚、この時の松井の敬遠以降は日米野球では日本の打者が敬遠されることは長らくなく、2014年に松田がされるまでなかったという。
契約更改では倍増の1億6000万円で一発サインした。
高卒選手ではイチローと並ぶ史上最短(当時)の入団4年目で1億円プレーヤーの仲間入りを果たした。

1997年は西武ライオンズの清原和博が巨人に入団し、清原とのコンビは「MK砲」と呼ばれた。
4月27日の広島戦で通算100本塁打を達成。
4月は好調で10本塁打を放つ好スタートを切った。
最終的に打率は3割をわずかに下回ったが、37本塁打を放った。
しかし、ドゥエイン・ホージーとの本塁打王争いに1本差で敗れ、史上初の2年連続1本差でタイトルを逃すことになった。
打点は初めて大台を突破する103打点を挙げるが、ルイス・ロペスに及ばず無冠に終わった。

1998年は春季キャンプ中に左膝を痛め[30]、「左膝軟骨損傷」と診断された。
膝の不安を抱える中で開幕から4番に座ったが、初本塁打は11試合目まで遅れ、その間には32打席無安打というプロ生活最大のスランプにも悩まされた。
4月は打率.190、2本塁打に終わり、5月2日には清原和博に4番の座を奪われた。
膝の痛みが和らいだ5月10日に久々の第3号本塁打を放つと、その後の12試合で9本塁打して月間MVPを受賞するなど本来の調子を取り戻した。
その後は順調に打ち続け、7月28日のヤクルト戦で通算150本塁打を達成。
最終的には34本塁打、100打点で自身初のタイトルとなる本塁打王、打点王、最高出塁率のタイトルを獲得。
巨人で本塁打王と打点王の両方獲得は、1977年の王貞治以来21年ぶりの快挙であった。
一方で、膝の故障は現役を通じて古傷として松井を悩ませ、周囲の筋肉を鍛えることでだましだましプレーを続けたが、その影響は右膝にも及ぶようになった。

1999年は前年の日米野球でサミー・ソーサからアドバイスを受け、シーズン前に広角に打つことを意識したフォームに改造。
6月5日の横浜戦から6月10日の中日戦まで5試合連続本塁打を記録する。
9月21日の阪神戦では通算200本塁打を達成。
7月のオールスター第1戦では4試合連続本塁打(新記録)を放ったが、第3戦で代打出場した際にわき腹を痛め、
7月30日の広島戦で遂に先発メンバーから外れた。
この時点で現役最多だった連続フルイニング出場が574試合(当時歴代3位)で止まる。
長嶋が松井に負担のかからない形で連続試合出場記録を尊重することを決め、以後8月中旬までは記録のために1イニングだけ守備固めとして出場する。
ケガの影響が響いてロベルト・ペタジーニと2本差で本塁打王を逃すことになるが自己最高の42本塁打を記録。
日本人のシーズン40本塁打は1989年の落合博満以来10年ぶり、巨人では1977年の王貞治以来22年ぶりの快挙であった。
シーズン終了直後の10月24日には、ヤンキー・スタジアムで初めてメジャーリーグの試合(ALCS第2戦)を生観戦している。
この経験は強く心に刻まれ、後のメジャーリーグ挑戦を決断する要因の一つにもなった。

2000年は開幕から4番に座り、以後日本シリーズ、日米野球なども含めて、他の打者に4番を譲ることはなかった。
右小指をグリップにかける打法に変えたことで、あまり強くバットを握らずにリラックスして構えられるようになったことで打撃は凄味を増し、
シーズン半ばまでは三冠王を狙える勢いで打ち続けた。
7月12日の広島戦で通算1000本安打を達成。
最終的に135試合全イニングで4番に座り、いずれも自己最高の打率3割1分6厘、42本塁打、108打点をマーク。
シーズン全試合4番出場は巨人では1950年の川上哲治以来50年ぶりの記録だった。
本塁打王、打点王、最高出塁率、シーズンMVP、日本シリーズMVP、ゴールデングラブ賞を受賞し、巨人の日本一の立役者となった。
なお、この年の日本シリーズMVP受賞によって川上哲治、大下弘、福本豊に次ぐ史上4人目の「レギュラーシーズン、オールスター戦、日本シリーズにおけるMVP獲得者」となった。

プロ野球界に最も貢献した人物に贈られる正力松太郎賞も初受賞した。
同年の日米野球では、メジャーリーグ選抜のボビー・コックス監督に「ゴジラはいいねえ。バットスイングが速い」と称賛された。
この時点では「大リーグなんて、そんな」とメジャー挑戦に否定的だったが、
「野球をやっていて、大リーグを全然考えないと言ったら、うそになるかもしれません」と2年後のFA移籍に含みを持たせた。
11月21日には石川県県民栄誉賞を受賞した。
契約更改では、松井のメジャー流出を危惧した球団側が8年総額56億円という破格の長期大型契約を持ちかけたが、
松井は「一年一年が勝負という気持ちでプレーしたい」として単年契約にこだわり、球界最高(当時)の年俸5億円でサインした。

2001年4月12日の中日戦に1000試合目の出場で通算250本塁打を達成。
5月3日の中日戦で当時史上5人目の1000試合連続試合出場を達成。
5月5日から8月13日までセ・リーグ歴代1位の65試合連続出塁を達成する。
9月27日、広島カープ戦で自身初の1試合3本塁打(3打数連続)を記録するなど9月は打撃好調で月間MVPを受賞した。
この年、初の首位打者のタイトルを獲得したが、全イニング出場での首位打者は王貞治、イチローに次ぐ史上3人目の快挙となった。
一方で、本塁打数はなかなか伸びず、20号本塁打を放ったのは8月7日であった。
8月まで年間30本に届かないペースで推移していたが、
9月にようやく量産体制に入ると、自身初の1試合3本塁打を含む月間11本塁打と巻き返したが、最終的な本数は36本とやや数を落とした。
本塁打王のタイトルは当時本塁打王争いをしていたペタジーニに再び奪還される。
この年の松井は、打球が上がらずにホームランが出ないという悩みに悩まされていた。
この年の打撃について、松井は後に「あの年首位打者を取ったけど、打撃は最後まで狂ったままだった」と語っている。
FA権獲得が目前に迫り、下交渉では球団から5年総額50億円の大型複数年契約を提示されたが、
これを断り当時プロ野球史上最高額となる年俸6億1000万円(後に、佐々木主浩が更新)で単年契約した。
契約更改後の会見では、来期にFA権を行使することを明言し、「このまま巨人に残るか、アメリカに行ってみるか二者択一になる」と語った。

2002年は開幕前、巨人がビジター用ユニフォームの胸ロゴを「TOKYO」から「YOMIURI」に変更したことについて、
「なぜ巨人の伝統を大事にしないのかなぁ」と松井がコメントしたとスポーツ報知が報じ、
オーナーの渡邉恒雄が激怒するという騒動があった。
記事を執筆した記者の広岡勲(現在は松井の専属広報)が巨人担当を外れることで事態は収拾した。
「日本一」「三冠王」の2つを目標に掲げて10年目のシーズンをスタート。
開幕後間もない4月13日にFA権を取得。
7月9日に黒田博樹から通算300号本塁打を放つ。
28歳0ヶ月での到達は王貞治の27歳3ヶ月に次ぐ史上2番目の年少記録であり、1200試合目での達成は史上6番目の速さであった。
また、8月1日には4番打者としての連続出場を363試合に伸ばし、石井浩郎の記録を抜き当時の単独1位(後に、金本知憲が更新)となった。
オールスターゲーム前までは、前年同様打球が上がらず76試合で18本塁打だったが、
後半戦は64試合で32本塁打という驚異のペースで打ち続け、自己最多、史上8人目の50本塁打を記録する。
セ・リーグでは1985年のランディ・バース以来17年ぶり、日本人では1986年の落合博満以来16年ぶり、巨人では同じく1977年の王貞治以来の25年ぶりの快挙となった。
ペタジーニに9本差をつけた50本目の本塁打は2002年の本拠地最終戦の対ヤクルト戦(東京ドーム)で記録。
7・8月と2ヶ月連続で月間MVPを受賞。
9月7日の広島戦でプロ野球新記録となる5年連続100得点を記録した。
シーズン終盤までは打率3割5分台を維持し、三冠王目前だったが、シーズン終盤に調子を落とし、首位打者争いで福留孝介にタイトルを譲った。
打率、本塁打、出塁率では自己最高の成績で、本塁打王、打点王、最高出塁率、シーズンMVPを獲得した。
なお、巨人ではこの年の松井を最後に日本人選手の本塁打王、打点王を獲得した選手は出ていない。
また、巨人の日本人左打者の40本塁打以上の選手は2010年に阿部慎之助が44本塁打を記録するまで現れなかった。

レギュラーシーズン終了後の10月11日には監督の原と、16日には球団代表の土井とそれぞれ会談。
前監督の長嶋とも長時間会談し、残留を要請されたが、結論は日本シリーズ後に持ち越した。
10月18日には、ニューヨーク・タイムズ紙でニューヨーク・ヤンキースが松井の獲得を狙っていることが報じられた。
日本シリーズでは、松井の安打数は4本に留まったが、チームは1990年の西武以来12年ぶりで球団(巨人として)初の4連勝のストレート勝ち(4勝0敗)で西武を下し、日本一の栄冠に輝いた。なお2012年にMLBで引退したため、この日本シリーズが自身にとって現役時代最後の日本シリーズ出場となった。11月1日にFA権を行使してMLBへの挑戦を表明した。「最後の最後まで悩んで苦しかった。何を言っても裏切り者と言われるかもしれないが、いつか『松井、行ってよかったな』と言われるよう頑張りたい。決断した以上は命を懸ける」と決意を語った[51]。松井はFA宣言をするときに自らを「裏切り者」と発言し、松井の危惧の通り、裏切り者だと考えるジャイアンツファンは一定数存在したが、日本球界全体では松井の成功を祈っていた。むしろ彼がそれだけプロ野球ファンのことを考えている証左だとする賞賛の声や、移籍決断に至るまでの彼の苦悩に対して同情する声は決して少なくないばかりか逆に多かった[3][52][53][54]。球団関係者は沈痛な面持ちで「球界の財産である松井選手のアメリカ(MLB)への流出を防ぐことができず、応援してくださるファン皆さんには何とお詫びしたらいいか……」と、まるで不祥事でも起こしたようなコメントを残した。MLB球団との交渉にあたって、当初は代理人無しで交渉に臨む予定だったが、MLBの契約内容の複雑さを知った松井は方針を転換し、ジェイソン・ジアンビの代理人としてニューヨーク・ヤンキースと大型契約を締結した実績があるアーン・テレムを代理人に選定した[55]。テレムには「ヤンキースとだけ集中して交渉してほしい。ヤンキースがダメだったら次のことを考えよう」と伝え、ヤンキースへの入団を熱望した。

ヤンキース時代(2007年)
2002年12月19日にニューヨーク・ヤンキースと総額2100万ドル(当時約25億4100万円)の3年契約に合意。
ニューヨークの新聞各紙は「ゴジラがブロンクスにやってくる」という大見出しをつけた。

2003年1月14日にニューヨーク市内のホテルで行われた入団会見には、約300人の報道陣に加え、
球団社長のランディ・レバイン、監督のジョー・トーリ、ロジャー・クレメンス、
ニューヨーク市長のマイケル・ブルームバーグらも出席した。
松井は「ヤンキースはメジャーの中でも素晴らしい伝統がある。
素晴らしいプレーヤーがたくさん在籍した球団。
自分の中でも一番刺激があるチームで自分の力を存分に発揮したかった」と語った。
巨人からFA権を行使して移籍したのは1994年の駒田徳広(横浜へ移籍)以来2人目であった。
海外FAは球団初。
ヤンキース史上初の日本人打者(日本人で初めてヤンキースとメジャー契約したのは投手である伊良部秀輝)である。
3月31日、公式戦開幕試合のトロント・ブルージェイズ戦に5番レフトで先発出場し、
初回にロイ・ハラデイから左翼前への適時打を放ち、初打席・初安打・初打点を記録。
4月8日の本拠地開幕戦、ミネソタ・ツインズ戦では前打者のバーニー・ウィリアムスが敬遠された後の打席で2-3からジョー・メイズの145km/hをライトスタンドに叩き込む、
メジャー初本塁打となる満塁本塁打を放つ。
4月12日にはメジャー初のサヨナラ安打を放つ。
7月に行われたMLBオールスターゲームにファン投票のア・リーグ外野手部門で3位に入り初出場を果たした。
日本人では1995年の野茂英雄、2001年のイチロー、佐々木主浩に続く4人目のオールスターゲーム出場となった。
しかし、日本からの組織票に助けられた形での選出で、現地メディアでは批判が起こり、
試合ではスタメン出場を果たし1安打を放ったものの、ブーイングを浴びせられた。
また、スター選手とのバット交換用に日本から24本のバットを取り寄せたが、誰にも声をかけることも、かけてもらうこともされず、全て持ち帰った。
7月17日に行われたオールスターゲーム出場後の後半開幕戦のクリーブランド・インディアンス戦でデビッド・リスキーの146km/hの速球を右中間スタンドに運び、
日本人メジャーリーガー初のサヨナラ本塁打を放った。
ヤンキースの新人としては67年ぶり3人目の100打点以上を記録した(1926年のトニー・ラゼリ、1943年のビリー・ジョンソン)。
地区シリーズではポストシーズン日本人初の本塁打を放った。
ボストン・レッドソックスとのリーグ優勝決定シリーズ第7戦では、8回裏にホルヘ・ポサダの適時打で同点のホームを踏んだ際に大きく跳び上がり、全身で喜びを表した。
フロリダ・マーリンズとのワールドシリーズ第2戦では、ワールドシリーズでの日本人初本塁打を放った。
レギュラーシーズンでは雨天引き分けによる再試合があったため、新人かつヤンキースの選手としては21世紀になって初めてシーズン163試合に出場した選手となった。
しかし、本塁打数はわずか16本と、期待外れの結果に終わった。
それでも、得点圏打率はチーム最高の.335、打点は主砲のジェイソン・ジアンビに1差となるチーム2位の106打点を叩き出し、勝負強さを発揮した。

2004年は前年16本塁打に終わったことを反省し、オフに大幅な筋肉増量に取り組んだ。そのため松井の身体、特に上半身は一回り大きくなった。
それが功を奏し、重心の位置を下げてスタンスを広めにしたことにより、左方向への本塁打が増加。
スプリングトレーニングでは本塁打と打点のチーム2冠王に輝いた。
東京ドームで行われたタンパベイ・デビルレイズとの日本開幕戦に先立って開催されたヤンキースと巨人の親善試合では凱旋本塁打を放つ。
デビルレイズとの開幕2連戦では「2番・左翼」でフル出場し、2戦目には日本のファンの前で第1号本塁打を放った。
本土開幕戦以降は61打席本塁打なしであったが、4月24日のレッドソックス戦では、観戦に訪れた両親が見守る中で第2号本塁打を放ち、NPB・MLB通算350本塁打を達成。
その後は前年より大幅に速いペースで本塁打を量産し、6月4日には、前年より41試合早い53試合目で10号本塁打に到達。
5月最終週には二度目の週間MVPも受賞した。
6月19日、20日のロサンゼルス・ドジャース戦ではメジャー移籍後初の2試合連続本塁打を放った。
前半戦だけで前年を上回る17本塁打に到達。
オールスターゲームにはファン投票外野手部門での選出こそ惜しくも逃したが、最終投票で120万票を集めて選出され、2年連続で出場を果たした。
トーリ監督からはホームランダービーへの参加を打診されたが、「僕が出たらビールの缶が飛んでくる」と辞退した。
球宴明けの7月15日にはNPB・MLB通算1500試合連続出場に達した。
8月7日のトロント・ブルージェイズ戦でMLB移籍後初の2打席連続本塁打を放った。
15日のシアトル・マリナーズ戦で前年のワールドシリーズ以来の4番に座ると、シーズン後半には4番打者に定着した。
9月30日のツインズ戦で日本人選手初の3試合連続本塁打を放った。
最終的には日本人メジャーリーガー史上最多で前年のほぼ倍にあたる31本塁打と同最高のOPS.912を記録し、
打率こそわずかに3割を下回ったが、三部門全てで前年を上回る好成績を残した。
ポストシーズンでは打棒が爆発し、11試合で51打数21安打、打率.412、3本塁打、13打点、OPS1.221を記録。
前年に引き続いての対戦となったレッドソックスとのア・リーグチャンピオンシップシリーズでは
リーグチャンピオンシップシリーズ史上最多タイとなる14安打、28塁打を記録。
第3戦には、これまた最多タイの1試合5安打、5得点を記録するなど絶好調であったが、チームは先に3連勝しながらまさかの4連敗を喫し、ワールドシリーズ出場は逃した。
オフには徹底した筋力強化に取り組み、大幅な体重増(103kg→110kg)を遂げた。

2005年の開幕前は本塁打王のタイトル獲得にも意欲を見せていたが、4月9日から5月29日にかけて46試合、202打席連続本塁打なしという不調に陥った。
誕生日の6月12日には右足首を捻挫し、途中交代するアクシデントもあったものの、DHでの出場も挟んで粘り強く出場を続けた。
20日には自身3度目の週間MVPを受賞し(6試合で打率.455、3本塁打、10打点)、
6月は全試合で出塁を記録して月間打率.398、6本塁打、23打点、OPS1.165と好調であったが、翌月の球宴出場は逃した。
7月28日には、アーニー・バンクスを抜いてメジャーデビューから425試合連続出場の新記録を樹立。
3年連続で全試合出場を果たすと共に、メジャーでの自己最高となる打率.305、116打点を記録。
松井自身は打率と打点で前年を越える成績を残したことに満足感を示したものの、本塁打の減少については来年の課題にすることを誓った。
9月8日にはNPB/MLB通算400本塁打を達成し、9月と10月は打率.348、3本塁打、OPS.932と好調を維持してチームの地区優勝に貢献。
しかしロサンゼルス・エンゼルスとのディビジョンシリーズで2勝3敗で敗退し、松井自身も20打数4安打の打率.200と抑え込まれてしまった。
敗退が決まった第5戦では、5打席全てに走者を置きながらいずれも凡退し、8残塁という屈辱的な結果に終わった。
ポストシーズンのシリーズ突破がかかった試合で5打席全てに走者を置いて凡退した打者は、
1986年のワールドシリーズ第6戦でのビル・バックナーに次いでメジャー史上2人目であった。
試合後のインタビューでは、「僕がチャンスで打てていれば、試合の結果は変わっていた」と悔しさを滲ませた。
この年限りで3年契約が切れるため、開幕前には総額3150万ドルの3年契約を提示されていたが、
シーズン終了後に改めて交渉に臨むことを決め、オフに交渉を再開。
途中交渉が難航し、最終的にはヤンキースと4年総額5200万ドル(当時のレートで約61億8800万円)で契約延長。
「最高に幸せです」とコメントし、高評価での契約延長に満足感を示した。
GMのブライアン・キャッシュマンが「松井はグラウンドでの才能だけでなく、日本のファンをひきつける力がある」と述べたように、
ビジネス面での貢献度も評価された形となった。

2006年は開幕前に行われたワールド・ベースボール・クラシックの出場を辞退してシーズンに備えた。
しかしスプリングトレーニングで古傷の左ひざ痛が再発したり、
持病の花粉症に悩まされるなど、万全とは言えない状態であり、本人も「正直よくない」と不安を漏らしていたが、
開幕戦で1本塁打を含む4安打を放ち、幸先の良いスタートを切る。
4月18日にはデビュー以来500試合連続出場を達成。
5月11日に本拠地ヤンキー・スタジアムで行われたレッドソックス戦の1回表、
マーク・ロレッタの放った浅めのフライを滑り込んでキャッチしようとした際にグラブが芝生にひっかかり左手首を故障。
そのまま途中交代した。1イニング守備に就かずに交代したため、巨人時代の1993年8月22日から続いていた連続試合出場記録が「1768」で途切れた。
ニューヨーク市内のコロンビア大メディカルセンター病院で即日の検査を行った結果、左手首(橈骨)骨折と診断。翌朝に手術が行われ、故障者リスト入りする。
チームメイトに与えたショックも大きく、デレク・ジーターは「松井の代わりなんて誰もいない」と語った。
8月17日には98日ぶりにベンチ入りし、30日にはフリー打撃を再開した。
9月12日のデビルレイズ戦に8番・指名打者で124日ぶりに先発出場。
満員の観衆からスタンディングオベーションで迎えられ、4打数4安打の活躍で復活を遂げた。
復帰後は14試合で打率.430を記録するなど好調で、最終的には51試合の出場ながら打率.302をマークした。
チームも9年連続で地区優勝を果たしたが、
デトロイト・タイガースとのディビジョンシリーズでは16打数4安打、0本塁打、打点1と目立った活躍が出来ず、チームも2年連続でディビジョンシリーズ敗退となった。

2007年2月に著書『不動心』(新潮新書)を刊行し、30万部を超えるベストセラーとなった。
開幕から4試合目の4月7日、ボルチモア・オリオールズ戦の2回の第1打席目に捕ゴロで一塁へ走った際、左太股に一瞬つったような違和感を訴える。
その後2イニングはストレッチなどで様子を見ながら守備に就いていたが、
太股の張りが消えないため、4回の第2打席目の直前で首脳陣は代打を告げ、そのままベンチ裏に退き、翌日故障者リスト入りする。
MRI(磁気共鳴画像装置)診断の結果、左太股の軽い肉離れが判明。
故障は順調に回復、故障者リストの期限が切れる4月23日に出場選手登録され、同日のデビルレイズ戦へ16日ぶりにスタメン復帰となった。
5月6日、本拠地でのマリナーズ戦で日本人メジャーリーガー2人目となるNPB・MLB通算2000本安打を達成。
日本から駆けつけた名球会会長の金田正一の目の前での快挙達成であり、名球会入りを果たした。
当初は外野手の失策と記録されたが、後に二塁打に訂正され、直後判定に両チーム乱闘が起こった。
6月は打率.252、3本塁打、OPS.706と打撃不振に陥り、6月26日には地元紙から他4選手と共に、勝てない直接の原因として名指しされた。
7月に入ると一転して打撃好調で打ちまくり、出場28試合で打率.345、28打点、OPS1.145の成績。長打率.735、13本塁打、31得点はリーグトップだった。
8月2日には、7月のリーグ月間MVPに選出された。
8月5日、ヤンキースタジアムでのカンザスシティ・ロイヤルズ戦でメジャー通算100本塁打を達成。
終盤からプレーオフにかけて右膝の故障に苦しみ、9月は打率.185、2本塁打、OPS.689を喫した。
チームは3年連続でディビジョンシリーズ敗退、松井も4戦で打率.182(11打数2安打)に終わった。シーズン成績は25本塁打・103打点と一定の数字を残し、
打点を多く叩き出すため、ゲームのキャラクターのように打点をパクパク呑み込んでいく連想から、
この年にはチーム内で「パックマン」という愛称が、本人はオフのインタビューで「今季は失敗しかなかった。
話になりませんよ」と振り返り、怪我や要所での凡退を繰り返したことに悔しさを滲ませた。
シーズン終了後の11月14日にニューヨークの病院で右膝の軟骨を除去する内視鏡手術を受ける。

ヤンキース時代(2008年)
2008年3月26日に富山県出身の25歳日本人女性とアメリカ合衆国ニューヨーク市内で挙式。
翌日に新婦の似顔絵と共に記者会見を行い、結婚を報告した。
相手が元会社員で一般人のため、プライバシーを考慮して、顔写真や氏名は公表していない。
レギュラーシーズンでは監督の交代もあり、開幕前はレギュラーが確約されなかった。
開幕は「8番・指名打者」からのスタートとなったが、序盤は打撃が好調で打順も上がり、
一時は打率.337で首位打者に立ち、4月から5月にかけては自己最長となる19試合連続安打を放った。
また、この年のオールスターゲームは同年限りで閉場する地元ヤンキースタジアムで行われる最後のオールスターゲームということもあり、
松井も「こんな舞台は二度とない。
出られれば一生の思い出になると思う」と出場を熱望し、地元の石川県の公式サイト上でファン投票の呼びかけが行われたが落選した。
6月になっても好調を持続させ、首位打者争いをしていたが、6月18日の試合前、突然古傷の左膝に痛みが走り、
患部に溜まった水を抜く治療を受けた後、監督のジョー・ジラルディとGMのブライアン・キャッシュマンの意向で6月27日に故障者リスト入りした。
オフに手術した右膝を無意識にかばい、左足に負担が掛かっていたことが原因だった。
持ち上がった手術の話に関しては、7月17日の段階では「(手術を)球団に勧められれば受け入れる 」との考えを示していた。
しかし、2日後にキャッシュマンから手術を勧められた際には態度を一転させ、2時間もの説得にもかかわらず手術を拒否した。
その後、2ヶ月に渡る治療・リハビリののち、8月19日のブルージェイズ戦から復帰、主に「7番・指名打者」として出場を続けたが、万全には程遠く打撃は低迷。
チームのプレーオフ進出も困難になった9月後半からは再び控えに回り、21日のヤンキー・スタジアム最終試合の先発出場を最後にシーズンを終えた。
9月22日に左膝の内視鏡手術に踏み切った。
最終的に打率は3割を下回る.294、安打数は99、本塁打も一桁の9本と寂しい成績に終わった。

2009年のワールドシリーズ優勝記念パレードにて
2009年は「3割30本100打点」「4盗塁」を個人成績での目標に掲げてスタート。
膝のリハビリを最優先したために、調整が遅れてしまい、スプリングトレーニングでも序盤は不振が続いたが、
故障のため離脱したアレックス・ロドリゲスに替わって4番に座り、
4月4日には、新ヤンキー・スタジアムの?落としに花を添える本塁打を放つ等、4本塁打を放った。
開幕戦では4番・指名打者として出場し、7回には恩師である長嶋茂雄の通算444号を超えるNPB・MLB通算445号となる2点本塁打を放った。
しかし打撃の調子はなかなか上がらず、5月以降も膝の腫れや太もも痛などの怪我が断続的に発生した。
ロドリゲスの復帰後は、打順が5番や7番に下がり、休養を入れながらの指名打者としての起用が続いた。
また、2009年は完全に指名打者としての登録になったため、
指名打者制のないナ・リーグの本拠地球場(ブッシュ・スタジアム)で行われるオールスターのファン投票にはノミネートされなかった。
5月下旬には守備練習を再開。
5月27日のテキサス・レンジャーズ戦では、NPB・MLB通算450号となる6号本塁打を含む2打席連続を放った。
しかしその後、18打席連続無安打を記録するなど打撃不振が続き、指名打者制が採用されないナ・リーグ本拠地でのインターリーグ(交流戦)では全試合で先発を外れた。
交流戦期間中の6月17日には阪神タイガースが松井の獲得に向けた調査を進めていることが明らかになり、松井本人は「ありがたい」とコメントし、他にも巨人やオリックス、さらには独立リーグの石川ミリオンスターズが松井の獲得に意欲を見せていると報じられたが、「それと日本に戻るという話は別問題」と語り、メジャーで現役生活を最後までやり抜くことを強調した[84]。7月20日のオリオールズ戦では、2003年以来6年ぶり2本目のサヨナラ本塁打を放ち、7月は打率.293、5本塁打、OPS.967と好調を続けたが、直後から13打席連続無安打に陥った。8月13日のマリナーズ戦では2本塁打を含む4安打5打点と爆発したが、直後に左ひざの状態が悪化してシーズン初の連続欠場となった。しかし復帰後の8月21日のレッドソックス戦にて3点本塁打を2本放つなどして自己最高の一試合7打点を記録。2日後のレッドソックス戦でも2本塁打を放つ活躍を見せた。こうして8月は中旬から比較的好調を維持して打率.281、8本塁打、25打点、OPS.918という成績を残し、勝負強い打撃を見せた選手に贈られる「クラッチ・パフォーマー賞」を贈られた[85]。9月19日のマリナーズ戦で26号本塁打を放ち、ドン・ベイラーを抜いて指名打者での年間最多本塁打の球団記録を更新。メジャー移籍後2番目に多い28本塁打を放ち、チーム3位の90打点を叩き出す勝負強さで3年ぶりの地区優勝に貢献した。レギュラーシーズン全日程終了後、「明らかに打率が低いのは反省点。(28本塁打は)よくも悪くもない」と総括した。また、4年ぶりに1度も故障者リストに入らなかったことを喜んだ[86]。米国のスポーツ専門誌「スポーティング・ニューズ」が選定するア・リーグ・オールスターメンバーにも指名打者部門で選出された[87]。ポストシーズンには主として「5番・指名打者」として出場。ミネソタ・ツインズとのディビジョンシリーズ第1戦では、試合を決定付ける2点本塁打を放った[88]。ロサンゼルス・エンゼルスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは初戦で2打点と活躍したものの、第4戦・6戦では無安打とやや調子を落とし、打順も6番に下がったが[89]、チームは4勝2敗でエンゼルスを下し、メジャー1年目の2003年以来6年ぶりにワールドシリーズへと駒を進めた。迎えた前年の覇者フィラデルフィア・フィリーズとのワールドシリーズでは5番に復帰し、持ち前の勝負強さを存分に発揮した。初戦は1安打のみに終ったが、第2戦では1-1の同点で迎えた6回裏に、ペドロ・マルティネスから決勝本塁打を放った。
フィリーズの本拠地シチズンズ・バンク・パークで行われた第3?5戦は、指名打者が使えないため代打での出場となった。
第3戦では2試合連続となる本塁打を放ち、第5戦でも左前打を放つなど、わずかな出番ながらも結果を出した。
ヤンキースの3勝2敗で本拠地に戻った第6戦では先発に復帰し、2回にペドロ・マルティネスから先制の2点本塁打を放つと、
3回には中前適時打、5回にも右中間を破る適時二塁打で2打点ずつを加え、ワールドシリーズ・タイ記録となる1試合6打点をマークし、
スタジアムのファンからは「MVP!」の大歓声が沸き起こった。
9年ぶりの世界一に貢献し、13打数8安打3本塁打8打点、打率.615、OPS2.027で日本人選手初、
フルタイムの指名打者としても初めてとなるワールドシリーズMVPに選出された。
また、「日本シリーズMVPとワールドシリーズMVPを共に受賞した初の選手」となった。
ヤンキースとの契約満了に伴い、11月9日にFAとなり、ヤンキースは松井との残留交渉は行わなかった。

出典:画像、プロフィール:タレントデータバンク ウィキペディア goo

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