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1月18日お誕生日の有名人:ビートたけし様

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ビートたけし様 お誕生日おめでとうございます。

ビートたけし(1947年1月18日)は、日本のお笑いタレント、俳優、映画監督である。
本名:北野 武(きたの たけし)。東京都足立区島根出身。オフィス北野所属。

タモリ、明石家さんまと共に、日本のお笑いBIG3の一角を担う。
日本国外では本名北野 武で、映画監督として知られる。

来歴
幼少時代

塗装職人の父・北野菊次郎(1899年1月13日[5] - 1979年9月12日)と、母・北野さき(1904年3月5日[6] - 1999年8月22日)の四男(幼少時に早逝した兄が一人いるため、
実質は三男として育つ)として生まれ、「竹のようにどんなものにも耐えてすくすく伸びてほしい」との願いから、「武(たけし)」と命名された。
『平凡パンチ』1978年11月13日号のインタビュー記事では「浅草に生まれて、下町に育った」と語っており、
1982年「週刊サンケイ」の小林信彦との対談でも「生まれたのは浅草で、すぐ移って、物心ついた時には足立区にいたんです」と話している。
色白で細面、小柄だが俊敏で友人からは「ターチ」と渾名された。
兄姉とは年が離れていたため、祖母の北野うしに非常に可愛がられて育った。母親からは厳しく接せられた。

足立区立梅島第一小学校に入学。教育熱心だった母の薫陶が功を奏し成績は優秀で、特に算数と図画工作が得意だった。
小学校卒業後は、母親が進学校を希望したため、近隣の中学ではなく、遠く離れた足立区立第四中学校へ越境入学した。
中学卒業後、東京都立足立高等学校に入学。
なお、小・中・高といずれも野球部に所属(高校は、軟式野球部)したが、高校時期にヨネクラジムでボクシングを習っていたという。
なお、演芸場時代は、漫才師の野球チーム「メダトーズ」に加入していた。
また未成年時代に飲酒していたことも自身の著書で明かしている。

大学時代
1965年(昭和40年)に高校を卒業し、母親の薦めで、明治大学工学部(後の理工学部)機械工学科に現役合格し入学。
しかし大学での生活には適応できず、五月病を患うようになり、大学2年の時には、家出同然に一人暮らしを始め、新宿界隈で当ての無い日々を送るようになる。

学生運動にも参加したが熱心ではなく、ジャズに傾倒する。
“LeftyCandy”や「新宿ACB(アシベ)」、名曲喫茶「風月堂」などに入り浸った。
また、ジャズ喫茶のボーイもしていて、ジャズの見識は一部で有名であった。
新宿のジャズ喫茶「ビザール」では、若松孝二、小水一男らと知り合う。
また「ビザール」のボーイの後輩に萩原朔美がいた。
ヴィレッジヴァンガードで、遅番のボーイとして働いていた時は、連続射殺事件の永山則夫が早番のボーイとして働いていた。
「ジャズ・ビレッジ」の壁に書かれていた文章「強く生きよと母の声、死ねと教えし父の顔、何のあてなき人生なり」が心に残ったという。

この頃は青春の葛藤期でもあり、友人の下宿に居候しアルバイト三昧の青春時代を過ごす。
ジャズ喫茶のボーイ以外に、菓子の計り売り、実演販売員、ビルの解体工、クラブのボーイ、東京国際空港での荷卸し、タクシー運転手、ガソリンスタンド店員を転々とする。
東京国際空港の荷役作業ではジャズ喫茶の常連客だった中上健次が先輩におり共にガルーダ・インドネシア航空の荷役として働いていた。
後に通訳になろうと思い立ち、留学費用を稼ぐ目的でタクシーの運転手を務めるも半年で退社、ガソリンスタンドでアルバイトをした。
この間、若松との縁で『新宿マッド』『腹貸し女』など、幾つかの若松プロ初期作品に端役ながら出演したり、
学生演劇に参加したが、ヴォードヴィルのような軽演劇で、舞台役者ではなく構成に携わっていたという。

大学は140単位のうち106単位まで取得していたにもかかわらず、結局通学せずに除籍。
のち、2004年(平成16年)9月7日、明治大学より「特別卒業認定証」(明治大学独自の制度であり、
法的な大学卒業とは異なる)及び知名度アップに貢献したとして「特別功労賞」を受賞。

前座時代

学生運動が収束に向かったこともあって、自身も去就を模索する必要に迫られた。
芸能に興味はあったが、アングラ演劇には馴染めず、「理工系なので文学的なものはわからない、しかし演芸なら自分にも理解できるだろう」という理由で、
いつしか芸人を志望するようになった。
ただ、子供の勉学に厳しく大学にまで入らせて芸人の道を志した息子に、母は怒り嘆き、子供の頃から厳しい勉強を強いられて窮屈な思いをしていた武は、これに猛反発。
北野家においても、近所の体裁を考えて「芸人を目指した北野家の武」という存在は無かった事になっていた。

1972年(昭和47年)夏、浅草のストリップ劇場・浅草フランス座で、芸人見習い志願としてエレベーターボーイを始める。
当時、たけしと思しき人物を見た井上ひさしは「不機嫌そうな青年」と、その印象を述べている。
やがて、同劇場の経営者兼座長であった深見千三郎に師事し、前座芸人・北千太としてコント(軽演劇)を学ぶ。
初舞台は、痴漢のコント。
幕間コントに出演して腕を磨き、芸人としてタップダンスの修業にも励む。
座員の多くが深見を近付き難い存在として見ていたが、たけしは物怖じしなかったため、深見から気に入られた。
ただ、深見は一般の場所でも唐突にギャグ(ボケ)を連発、間髪入れずに師を即興で罵倒という技術を仕込まれ、
この特異な芸の仕込みに北野は深見に四六時中振り回される形となり芸を習得、模索する事になる。
この指導もあり、舞台ではアドリブを駆使し、言葉の拾い方に独特の斬新さがあったため一目置かれ、
後に誕生する漫才コンビ・ツービート独自の芸風の基礎として取り入れられ漫才ブームで駆使し一気に開花する。
当時は、フランス座の4畳間の屋根裏部屋で寝泊りをしていた。

長じて、フランス座の新人芸人とコントコンビを組むことを考える。
舞台(コント)が活動の主軸を旨としていた深見は、漫才での活動を望んだ弟子の北野を即刻破門、漫才を主軸に活動の場を放送媒体に移す。

ツービート結成
コントでの芸能界デビューを模索した一方、フランス座に出入りしていた2年先輩の兼子二郎からも漫才コンビを組むよう誘いを受けた。
コントにこだわった武は漫才コンビに慎重だったが、当時フランス座は経営難で、給料の支払いすら事欠くようになっていたことや、
コントコンビを組む予定の相方の病気もあり、また、背広一つで稼ぐことができる漫才に魅力を感じていたことから、
「松鶴家次郎」の芸名で舞台に上がることを了承した(兼子の芸名は「松鶴家二郎」)。
なお、深見からは引き続きフランス座の屋根裏部屋で住むことが許された。

当初は、兼子がツッコミの正統派の掛合い漫才で全く芽が出ず、フランス座にいた頃よりも貧窮した。
兼子が一時コロムビア・ライトの付き人をして生活を凌いでいたため、その縁で空たかし・きよし
(コロムビア・トップ・ライトの一門は皆「青空」の家号を名乗るが、片方の弟子なので「空」だけとなった。)と名乗り、営業に出たこともあった。
また、当時はツッコミ担当で、ネタはきよしが作成していた。
演芸場のギャラは安いため、地方キャバレーなども回るようになるが、たけしは酔客相手の仕事を嫌い、出番をすっぽかしたり、酩酊して舞台に上がることが多かった。
また、店を誹謗したり、客やホステスに喧嘩を吹っ掛けたので、度々舞台から降ろされたため、兼子は場繋ぎに使う奇術ネタを用意していたという。
そして、この頃から「暴走ネタ・危険ネタ」へシフトしていき、ボケとツッコミの役割も入れ替わった。

紆余曲折の後、2人はコンビ名を「ツービート (two beat)」へと変更し、たけしは「ビートたけし」、兼子は「ビートきよし」を芸名とした。

丁度その頃、大阪で頭角を現して来たB&Bのスタイルに触発され、ツービートもスピードを早めて喋りまくるスタイルへ変貌していった。
それに呼応するように、服装もタキシードに蝶ネクタイからアイビー・ルックへ変更することで、古臭い漫才師の様式から脱却を図った。
当初ツービートは、代演で松竹演芸場の舞台に上がっていたが、支配人に認められてからは出演回数も安定するようになる。
毒舌の限りを尽くした掟破りのたけしのツッコミネタもさることながら、ボーイズグループの楽器を拝借して現れたり、座布団の上に座って漫才を行ったり、
型破りな舞台が多いため、他の芸人が観に行ってしまうので「ツービートが漫才を始めると楽屋が空っぽになる」と評判になった。

漫才ブームまで
演芸場での人気とは裏腹に、その破壊的な芸風は一部の関係者に受け入れられず激しい抑圧を受け、漫才協団から脱退を求める声すら起きたという。
1976年(昭和51年)協団が主催するNHK新人漫才コンクールにツービートは3年連続で出場したが最優秀賞を獲得することは出来なかった。

1978年(昭和53年)、新宿区高田馬場の芳林堂書店前で持ちネタの全てを披露する「マラソン漫才・ツービート・ギャグ・デスマッチ」なる漫才ライブを開催したが、
この企画をした高信太郎との繋がりでたけしも、高平哲郎や赤塚不二夫、タモリなどと一時期交友関係を持った。
その後、「酒を飲んで軽いジョークを言いあったりする、あのシャレた笑い」が肌に合わず、自ずと距離を置くこととなった。

1979年(昭和54年)、女流漫才師「ミキ&ミチ」の内海ミキと結婚。
犬吠埼(千葉県)にて新婚旅行、亀有のアパートで生活を始める。

9月12日、父菊次郎逝去。

11月、『花王名人劇場』(関西テレビ 企画:澤田隆治)において、人気落語家・月の家円鏡(8代目・橘家圓蔵)の共演者に抜擢される。
古典派から「邪道」と言われた円鏡と、「邪道漫才師」ツービートを競演させ、「円鏡 VS ツービート」と銘打って放送されたこの企画が好感触を得たことで、
「花王名人劇場」での「激突!漫才新幹線」制作への布石となり、後の漫才ブームへ繋がった。

漫才ブーム
1980年(昭和55年)、「マンザイブーム」(旧来の“漫才”と区別される為にカタカナ表記)が起こり、
ツービートは毒舌漫才と毒舌ネタを売り物に、B&Bやザ・ぼんち等と共に一躍知名度を上げた。

速射砲さながらに喋りまくり、時おり弾倉を交換するかのごとく首を「くっ」と捻るたけしの姿は、個性派揃いの漫才師の中でも異彩を放った。
その毒舌が織りなすネタの主題となったのは、ジジイ・ババア・ブス・カッペ(田舎者)で、さらにウンコとヤクザとガキが頻繁に登場した。
また、金属バット殺人事件や深川通り魔殺人事件といった時事性の高い話題をいち早くギャグに取り入れた。
これらの不謹慎ネタは「残酷ギャグ」等と批判を受けることもあったが、たけしは「たかが漫才師の言う事に腹を立てるバカ」と言ってのけた。
日本船舶振興会のCMを皮肉って作られた「注意一秒ケガ一生、車に飛び込め元気な子」「気をつけよう、ブスが痴漢を待っている」
「寝る前にちゃんと絞めよう親の首」「赤信号みんなで渡れば怖くない」「少年よ大志を抱け。老人よ墓石を抱け。」等の一連の標語ネタは「毒ガス標語」と言われ、
ブーム初期の定番ネタとなった。

1980年(昭和55年)6月、ネタ本『ツービートのわッ毒ガスだ』を発刊し、年末までに約85万部の売上となったが、
当初事務所側はせいぜい3万部程度の売り上げと見込み、印税全額を2人が受け取る契約を結んでいたため、大金が転がり込んだという。

レオタードのハイレグを擬した「コマネチ」
この時期に、ツービートとして出演していた『スター爆笑座』(TBS) の初代司会であったせんだみつおと楽屋で雑談中に、
たけしの代表的ギャグとして知られる「コマネチ!」のギャグが生まれた。

1981年(昭和56年)1月、TBSで『二百三高地』の連続ドラマが製作され、ツービートは兵卒役として出演したが、
たけしは乱戦の最中「コマネチ!」で自己主張をはかり、監督以下の顰蹙を買った。
なお後年、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した際には、『コマネチ!』という記念本に寄せてコマネチ本人から祝福の手紙が贈られた。

1980年(昭和55年)10月、漫才師による昼の帯番組『笑ってる場合ですよ!』(フジテレビ)で、ツービートは火曜日のレギュラーとなった。
1982年(昭和57年)10月、ブームの終焉と共に番組も終了したが、最終回でたけしは客に対し
「何でもゲラゲラ笑いやがって! 本当はお前らみたいな客、大っ嫌いだったんだよ!」と語った
(なお、フジテレビからオファーのあった後番組の司会をたけしは断り、代わりに『森田一義アワー 笑っていいとも!』が開始された)。

1982年(昭和57年)の夏にはブームは完全に終息し、たけしは“タレント・ビートたけし”として、この頃以降は、単独で司会をする番組を多く持つようになるなどしていった。

漫才ブーム以後
漫才ブームを生き残ったたけしは、自身のスタイルを大きく転換させる。
毒舌家というパブリックイメージはそのままに、ネタに依存する消耗度の高い喋りを捨て、パーソナリティを軸とした芸風に移行していく。

1981年(昭和56年)元旦からニッポン放送・NRN系のラジオ番組『ビートたけしのオールナイトニッポン』、同年5月からフジテレビ系の『オレたちひょうきん族』がそれぞれ開始される。

1982年(昭和57年)から1984年(昭和59年)にかけて、番組出演中に弟子志願者(正式な門下は取らない主義の為“ボーヤ”と呼ばれる)が押しかけ、相当の数が集まった事(たけし軍団)から、集団で行うバラエティを模索。
日本テレビ『スーパージョッキー』、TBS『笑ってポン!』等が始まった。
また、博識が評価されて、毎日放送『世界まるごとHOWマッチ』等で文化人的な出演要請も増えた。
スーパージョッキー(日本テレビ)
天才・たけしの元気が出るテレビ!!(日本テレビ)
ビートたけしのスポーツ大将(テレビ朝日)
痛快なりゆき番組 風雲!たけし城 (TBS)
OH!たけし(日本テレビ)
世界まるごとHOWマッチ(毎日放送)
オレたちひょうきん族(フジテレビ)
オールナイトニッポン(ニッポン放送)

上記は、1985年(昭和60年)当時のレギュラー番組すべてであるが、このうち日本テレビ、テレビ朝日、TBS、フジテレビの20時台番組ですべて最高視聴率をマークした。
なお、『たけし城』『元気』『スポーツ大将』は、全て実質ビートたけし本人の企画・構成によるものである。

その他、放送以外に歌手としてのレコードリリースとライブ活動、文学小説の出版、ファミリーコンピュータのゲーム企画も行った。
この頃より、タモリ・明石家さんまと共に、「日本のお笑いタレントBIG3」と称されることとなった。

1986年(昭和61年)12月、たけし軍団の軍団員とともに講談社のフライデー編集部を襲撃、住居侵入・器物損壊・暴行の容疑で、大塚警察署によって現行犯逮捕される。
この事件によって写真週刊誌の行き過ぎた取材が問題視され当時の官房長官がコメントを出すなど社会現象になった。

1994年(平成6年)8月、バイクによる自損事故を起こす。

漫才を披露する事はほとんどなくなったが、かつてはTVでは島田洋七との「B & Beat」で、稀に弟子のライブに飛び入りで相方ビートきよしとの「ツービート」として、
漫才を披露することがある。

2014年10月27日、約30年ぶりとなる単独ライブを渋谷のCBGKシブゲキ!!にて開催。
ライブのタイトルは「たけしが毎週ニュースキャスターの楽屋で、朝ズバッ!なんかで使ったパネルを勝手に拝借して、
イタズラ書きをしてはニュースキャスター後のS1でTBSに来ていた、爆笑問題田中の楽屋にそっと置いていたパネルが溜まったのでテレビでお披露目しようとしたら、
何処の局からも相手されなくて、仕方なくLIVEでお披露目することになった、たけし的スライドショーなLIVE」。
約200席のプレミアライブは約1分で即完売となった。

出典:画像、プロフィール:タレントデータバンク ウィキペディア goo

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