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4月1日お誕生日の有名人:桑田真澄様

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桑田真澄様 お誕生日おめでとうございます。

桑田真澄様の今年の運勢は?

桑田 真澄(くわた ますみ、1968年4月1日 )は、元プロ野球選手(投手)、野球解説者・野球評論家、野球指導者。
大阪府八尾市出身。プロゴルファーの桑田泉は実弟。独立リーグ選手の桑田真樹、ブライダルモデルのMattは実子。

PL学園高校時代は清原和博とのKKコンビで一世を風靡し、
プロ入り後は1990年代の読売ジャイアンツ(巨人)を、
斎藤雅樹、槙原寛己とともに先発3本柱の一人として支えた。

2007年にピッツバーグ・パイレーツで現役を引退してからは、
フリーランスの野球解説者として活動するかたわら、
早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程で修士(スポーツ科学)を取得。
指導者講習会を主催する特定非営利活動法人「アミーチ・デル・クオーレ」の理事長、
ボーイズリーグの麻生ジャイアンツの会長、東京大学運動会硬式野球部の特別コーチや、
日本野球機構(NPB)「統一球問題における有識者による第三者調査・検証委員会」の特別アドバイザーも務める。

経歴

小学2年生より町内会の「はやぶさ子供会ソフトボールチーム」でソフトボールを始め、
6年生主体のAチームでショートのレギュラーポジションを獲得。
小学3年生よりボーイズリーグの八尾フレンドに所属し、
父親である泰次により創意工夫された練習や特訓なども行っていた。
小学5年生の終わりより主戦級投手として活躍。

中学時代

1980年4月、八尾市立大正中学校に入学し、野球部に所属。
準硬式の試合(大阪中学校優勝野球大会)に出場。
入学直後に外野手兼一塁手としてレギュラーポジションを獲得。
中1秋から主戦級投手として活躍。

中2時(1981年)には、第32回大阪中学校優勝野球大会で優勝した
守口市立八雲中学校(エースは後にPLで1年先輩になる清水哲)に0-1で惜敗。
中3時(1982年)には、出場した春の中河内地区大会、大阪府大会、八尾市大会、第33回大阪中学校優勝野球大会の全てを制覇。
大正中学時代にバッテリーを組んでいたのが、のち上宮高校を経て、
南海→広島→巨人でプロ野球選手として活躍した西山秀二である。
桑田、西山率いるこの年の大正中は投打とも群を抜く強さだったと言われ、
また大会50周年記念誌には、「桑田の球はファウルにするのがやっとという有様で、
たまに出塁しても、見事なピックオフプレーにやられ、完敗を喫した。
負けて悔しいというよりも、あまりの力の差に唖然とさせられるばかりだった」と、
桑田を物語る逸話が掲載されている。
準硬式の関係者の間では「大正中学に桑田あり」とその名を轟かせていた。

西山は「140km/hくらいの球を、中学生の頃から放ってたね。
すんごいコントロールしとったよ。
ミットを構えた所にしか、ホンマにボールが来なかった。
プロに入って、暴投を捕れなくてコーチに怒られた時、
『桑田はこんな所に来ぃへんかったもん。
中学生でもそうなのに、なんでプロが出来ないの?』と聞きましたよ。
誰も打てんかった。
高校野球で、1年生から優勝して当たり前、プロでも活躍して当たり前、そういうボールやった。
ずーっと野球やってきて、総合的に桑田が一番凄いと思う。
オレの中では歴代ナンバーワンのピッチャーは桑田」と語っている。

進路方針等で学校側と問題に発展したため、中3の三学期に八尾市立成法中学校に転校し、卒業。

高校時代

1983年4月、PL学園高等学校に入学。
高校野球で活躍し、同期の清原和博とともに「KKコンビ」と呼ばれる。
同期では他にも松山秀明、今久留主成幸、内匠政博がプロ入りした。

PL入学直後は桑田自身の言によると、「4番は清原、エースは田口権一(元・本田技研野球部)」という既定路線で、
桑田以外の2人の長身の1年生が期待されており、172cmしかない桑田は「お前はあっちに行っておれ」という扱いだった。
中学時代の実績を考慮され、私学大会などで登板機会が何回かあったが、
いずれも痛打を浴び、監督から外野手転向を言い渡され、球拾いをする。
失意の中、ある日、母親が練習を見に来た際に
「もう投手ではダメなのでPLを辞めようかと思っている」と打ち明ける。
甘い言葉を期待していた桑田の意に反し
、母親の言葉は「補欠でもいいから投手として3年間、PLでやり通しなさい」というものだった。
「もう辞めさせて下さい」といつ言いに行こうかと思いながら、汗を流す毎日が続いた。
他方、清原の著書『男道』には「桑田は監督から特別メニューを受けており、将来性を見込まれていた」という一文もある。

1981年、1982年と春のセンバツを連覇したPLも、
夏は4年連続(1979年-1982年)で甲子園出場を逃しており、
1983年のV奪回は至上命令だった。
この年のPLは投手陣が安定せず、野球部監督の中村順司は、
市神港高校・報徳学園の野球部監督として春4回、夏4回の甲子園出場経験があり、
神戸製鋼の監督として都市対抗野球でも優勝(1977年)した
清水一夫を臨時投手コーチとして招聘する。
この清水が桑田の外野からの返球を見て、球の回転の良さに驚き、
「おい、あんな選手がおるんか。凄いのがおるじゃないか。学年など関係ない。私に任せてくれ。
夏までに立派なピッチャーにしてみせる」と発言し、桑田を投手に戻す。
清水コーチのマンツーマンの指導が始まる。
清水は後に「下半身が発達していながら、その使い方を知らなかった。
だから足腰、膝の使い方を教えた。
それだけでよかったんです。
腕のしなり、天性の肩の強さは惚れ惚れするほど。
毎日、私が桑田の球を自ら受け、一日、一日成長してゆくのが手に取るように分かったものでした。
球の切れ、伸び、変化球の絶妙な使い方、どれをとっても素晴らしかった。
そして、どんな過酷なトレーニングにも泣きそうな顔をしながらついて来た、見事な意志の力。
私を恩人と今も慕ってくれているが、
私としては『この子を使わん手はない』とコーチとして考えただけのこと。」と述懐している。

夏の甲子園に向けた大阪府大会に背番号17番で清原、田口とともに1年生としてメンバー入り。
打撃も買われての、投手兼外野手としての登録だった。
大阪府大会において、さして強いとは思えないチーム相手に、
よたよたとした試合展開でやっと勝つPLの有様を見かねた清水一夫が、
4回戦の大阪球場での吹田高校戦前に「もし桑田を先発させて負けるようなことがあったら全責任はワシが取ろう。
ワシも長いこと野球に関係して来たが、この試合は桑田や。
これで負けたら、ワシは一切野球から足を洗おうやないか。」と中村へ桑田先発を進言。
当初、中村は難色を示したが、清水の並々ならぬ自信と迫力、
そして投手コーチとしての力量に、思い切った起用を決意。
試合前まで弁当配りやバット運びをしていた1年生桑田の公式戦先発デビューが急遽、決まる。
試合前は同一チームにもかかわらず上級生は桑田を一人にし、
「ああ、もう負けや、三年間の高校野球は終わった」とか、
「お前がおるからあかんのや」と桑田を苛めた。
この試合、清原が公式戦初本塁打で桑田を援護、桑田は相手打線を散発2安打に抑え、完封する。
結果で上級生を黙らせた桑田(そして清原)の快進撃がそこから始まる。

1983年、1年生で背番号「11」ながら夏の甲子園に同校の事実上のエースとして出場。
1回戦の所沢商業高校戦で夏の甲子園デビュー。
2回戦の中津工業高校戦を三安打完封、初本塁打。
水野雄仁を擁して史上初の夏春夏の甲子園三連覇を目指した「やまびこ打線」の池田高校を準決勝で7-0と完封。
二死無走者でバッターボックスに立った投手桑田は、
「ホームラン以外で出塁してスタミナ消耗するより、
三振でも良いのでフルスイングでホームランを狙う方がベター」と考え、
レフトスタンドにホームランを放つ。
それまで一度も甲子園で本塁打を打たれたことのない水野から甲子園で初めて本塁打を打った選手となる
(自身、この大会2本目の本塁打)。
決勝では横浜商業高校を3-0と下して優勝を飾り、
学制改革以降最年少優勝投手(15歳)の記録を立てた。
決勝の試合後、「あと4回、甲子園に来て全部勝ちたい」と発言し、記者連中を驚かせる。
1年生投手が夏の甲子園の決勝に駒を進める例は東邦高校の坂本佳一、
早稲田実業高校の荒木大輔のように過去にもあったが、
いずれも準優勝に終わっており、桑田はそのジンクスを破ったこととなる。
また、この夏の甲子園の活躍により1年生で唯一、全日本高校選抜メンバーに選ばれ、アメリカ遠征を経験する。
帰国後、1年生で優勝し、首脳陣の信頼を勝ち得た桑田は、
中村監督に全体練習の短縮化(3時間程度)と個人練習の強化、
大会後の投手のノースロー調整を提案。
中村がこれを了承し、以後、PLの黄金時代(1983年夏-1987年夏)を迎えることとなる。

1984年の2年生での春のセンバツ、夏の甲子園はいずれも決勝で敗れ準優勝。
1985年、3年生の春のセンバツはベスト4、夏の甲子園は決勝戦で宇部商業高校を下し優勝。

高校野球激戦区の大阪から甲子園に出場可能な5回全てに出場。
そのうち4度決勝に進出し1年夏と3年夏の2回優勝という記録を清原とともに打ち立てる。
甲子園での通算勝利数は吉田正男に次ぐ歴代2位で学制改革以後は1位(20勝3敗)。
なお、「夏の甲子園の優勝投手はプロで大成しない」と言われていたが、
桑田がプロで173勝の成績を残した為、このジンクスも桑田によって破られた形となった。
桑田はプロに進んだ時の事を考え、ストレートとカーブのみで3年間通した。
ある時、試合でストレートとカーブしか投げない桑田に対して清原が
「もっと簡単に勝てるんだし、スライダーやシュートもキレてんのに何で投げへんねん?」と問い詰めると、
上述のことを言われ「とんでもないヤツと一緒に野球をやっとったんや」と驚愕したという。
打者としての才能にも優れ、甲子園通算本塁打数も清原和博に次ぐ歴代2位の6本である
(内訳⇒高1夏:2、高2春:2、高2夏:1、高3春:0、高3夏:1)。
高校通算25本塁打。
5回の大会の中で桑田・清原のいたPL学園を1失点以内で抑えた投手は、
2年生春の準決勝で延長11回で0-1で敗れた田口竜二(都城高⇒南海)、
同決勝で1-0で投げ勝った山口重幸(岩倉高⇒阪神)、
3年生春の準決勝で3-1で投げ勝った渡辺智男(伊野商⇒NTT四国⇒西武)といずれもプロ入りをしている。

ドラフト指名

1985年のプロ野球ドラフト会議で巨人から1位指名を受け入団。
桑田は早稲田大学進学を希望し他球団が指名を敬遠していたことから、
巨人との密約が囁かれる(KKドラフト事件)。
桑田自身は密約を否定した上で、
「巨人に行かないと言ったことはない。春の選抜が終わった時点で、
巨人が一位指名してくれたらプロに行こうと決めた。
当時のドラフトでは進学を示唆しながらもプロに入団した選手は自分以外にも大勢いる」と弁明している。
また、テレビ番組において、ドラフト前には4球団が1位指名でいくと伝えていたことを、
桑田本人が明かしている。
ドラフト当日のインタビューで巨人監督の王貞治は
「チームの状況を考えれば補強ポイントは投手。投手と言えば桑田」
「時期は言えないが、ずっと前から桑田一本で行こうと決めていた」と、
指名はドラフト当日の気まぐれな決断ではないことを明かした。
桑田で行こうと決断したポイントとして、
「状況に応じたピッチングができること」、
桑田で印象に残るプレーとしては、「
1985年春の選抜の天理高校戦でトリプルプレーを決めたこと」を挙げている。

プロ入り後

王監督時代

プロ入り前後は投球だけでなく打撃、守備も優れていた桑田について
野手転向を薦める者も多かったが、投手として1986年5月25日の中日ドラゴンズ戦でプロ初登板。
6月5日の阪神タイガース戦で初勝利を初完投で飾る。

2年目の1987年7月8日、札幌市円山球場での広島東洋カープ戦で、
自らの3点本塁打とタイムリーヒットでチームの全4得点をもたらした上で、
プロ初完封勝利を挙げる。
このシーズンは15勝6敗、防御率2.17の成績を挙げ最優秀防御率のタイトルを獲得、沢村賞に選ばれた。
また、堀内恒夫以来の10代での2桁勝利となった。
同年の日本シリーズでは第1戦と第5戦に先発したが、
いずれの試合も自らのエラーで自滅し、序盤で降板した。

翌1988年には、球団史上最年少の20歳0カ月で開幕投手に抜擢された。

第2次藤田監督時代

1989年からは監督の藤田元司独特の先発理論にもとづき斎藤雅樹、槙原寛己と共に3人の先発の軸として使われ「三本柱」と称された。

2年連続で開幕投手に指名された1989年は開幕から負けなしの5連勝スタート。
自己最多の17勝をマークした。
近鉄バファローズとの日本シリーズは、第2戦こそ敗戦投手になったが、
第6戦に勝利投手になってチームの日本一に貢献した。

1990年2月、中牧昭二によってスポーツ用品メーカーとの関係を暴露する内容の書籍
『さらば桑田真澄、さらばプロ野球』出版されたところ、その中で、
桑田が親しくしている会員制メンバーズクラブの社長に登板日を教えたらしい旨の記述や
会員の勧誘に成功の報酬として現金をもらう記述があり、
さらに同社長がかつて常習賭博罪で有罪判決を受けたことも明らかになったため、
桑田が野球賭博に関与しているのではないかとの憶測を招き、
その件も週刊誌やスポーツ紙等で騒がれることとなった。
当初、桑田は登板日漏洩の事実と金品の授受の事実をいずれも否定したが、
その後それが虚偽であったことが判明した。
そこで、巨人は、3月30日、桑田に対し、金品の授受等が統一契約書17条(模範行為)に反するとして、
シーズン開始後登板禁止1か月、罰金1000万円の処分を行った。
この件は、国会でも採り上げられるなど社会問題化した。
中牧との間では、野球賭博には関与していないことが確認されている。
もっとも、謹慎後は2試合連続完封でシーズン復帰するなど、
1か月の遅れをものともせず勝利数・防御率ともに斎藤に続いてリーグ2位と活躍した。
日本シリーズは第3戦に先発し、初めて完投(8イニング)したが、7失点と打ち込まれ敗戦投手になった。

1991年は、斎藤、槙原が不調に陥る中で奮闘し、
あらゆる項目でチームトップとなる成績を残す。
しかし、1992年は6年連続二桁勝利を記録したものの不調に陥り、
6月から7月のチーム10連勝、4連勝、7連勝をいずれも桑田が止めたことから
「連勝ストッパー」と揶揄されるようになる。

第2次長嶋監督時代

長嶋茂雄が2度目の巨人監督へ就任した1993年も前年に続いて
打線の援護に恵まれないこともあって精彩を欠き、野手転向論が再度沸くようになる。
この時期の不調に関して、当時セ・リーグの審判だった田中俊幸の著書
「審判だからわかること」によると「低めの球に伸びがなく、それまでストライクとコールしていた球が外れるようになっていた」という。
1994年シーズンは、14勝11敗、防御率2.52、奪三振185の成績を挙げ、最多奪三振のタイトルを獲得。
シーズンを通しての活躍でセ・リーグ最優秀選手 (MVP) に選出される。
8月13日の阪神タイガース戦(東京ドーム)では、セ・リーグタイ記録の16奪三振(毎回奪三振も記録)で完封。
また、10.8決戦で、7回から救援登板、9回までを無失点に抑えて胴上げ投手となる。

1994年の桑田について、投手コーチであった堀内恒夫は、「投手としての絶頂期だった」と振り返っている。

出典:画像、プロフィール:タレントデータバンク ウィキペディア goo

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