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3月25日お誕生日の有名人:エルトン・ジョン様

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3月25日お誕生日の有名人:エルトン・ジョン様
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エルトン・ジョン様 お誕生日おめでとうございます。

エルトン・ジョン様の今年の運勢は?

エルトン・ジョンElton John

出生名:Reginald Kenneth Dwight
生誕: 1947年3月25日(69歳)
出身地:イングランド ミドルセックス州、ピナー
学歴:王立音楽院卒
ジャンル:ロック、ポップス
職業:ミュージシャンシンガー・ソングライター,ピアニスト,作曲家編曲家,音楽プロデューサー
公式サイト:www.eltonjohn.com

エルトン・ジョン
エルトン・ハーキュリーズ・ジョン(Sir Elton Hercules John, CBE、1947年3月25日 )は、イギリスのミュージシャン、シンガー・ソングライター。
代表曲に、「僕の歌は君の歌」「クロコダイル・ロック」「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」「ダニエル」などがある。
出生時の名前は、レジナルド・ケネス・ドワイト(Reginald Kenneth Dwight)。
血液型 は A型。
最も売れたアーティスト一覧によると、
シングルとアルバムの総売り上げは、ビージーズやローリング・ストーンズ、ピンク・フロイドを上回る約3億枚。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第38位。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第49位。
「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第45位。
パートナーは、カナダ人映画監督、プロデューサーのデヴィッド・ファーニッシュ。

人物
1969年にソロ・デビュー。
1970年の「僕の歌は君の歌」のヒット以降コンスタントに活動を続け、
現在までに全世界で3億枚以上のレコード・セールスを記録した、
世界で最も成功した男性ソロ・アーティストの一人である。

作曲は彼自身によるものだが、
作詞は1968年のデビュー以降その多くを盟友バーニー・トーピンが手がけている。
芸名は、彼がソロ・デビュー前に参加したバンド、
ブルーソロジーのメンバーだったエルトン・ディーン(
Elton Dean、キース・ティペット・グループを経てソフト・マシーンに加入)と
ロング・ジョン・ボルドリー(Long John Baldry)の2人の名前から取ったものである。

1970年代前半に、人気は全盛期を迎えた。
1972年の『ホンキー・シャトー』以降、『ピアニストを撃つな!』(1973年)、
『黄昏のレンガ路』(1973年)、『カリブ』(1974年)、
『グレイテスト・ヒッツ』(1974年)、『キャプテン・ファンタスティック』(1975年)、
『ロック・オブ・ザ・ウェスティーズ』(1975年)が7作連続全米首位を記録し、
1975年には『キャプテン・ファンタスティック』で全米ビルボードのアルバムチャート史上初の初登場1位を記録するなど、
この時期に彼は数多くの快挙を成し遂げている。

当時、若手アーティストとしてギルバート・オサリバンをライバルとして認めた。
活動休止期間を経て、トーピンと一時期決別してからは不遇の時代が続いたが、
一方で1986年にはディオンヌ・ワーウィックらとのデュエット曲
「愛のハーモニー」で初のグラミー賞を受賞している。

1980年代後半から1990年代前半にかけては、
喉の病気やアルコール、薬物依存症などに苦しみながらも、
音楽活動と並行してチャリティーにも精力的に取り組むようになる。

1990年代前半からは復調し、映画『ライオン・キング』のサントラなど数多くの仕事で成功した。
1997年には、旧作の詩の一部を差し替え、
事故死したダイアナ妃に捧げたシングル「キャンドル・イン・ザ・ウィンド 1997/ユー・ルック・トゥナイト」が、
全世界で3,700万枚以上を売り上げるシングル史上最大のヒット曲となる。
この記録は、2015年現在も破られていない。
1998年2月24日には長年の功績を称えられ、ポピュラー音楽の音楽家としては3人目となるナイトに叙勲された。

彼の音楽性は、しばしば同様にピアノマンの異名を持つビリー・ジョエルと比較されがちだが、
メロディメーカーとしての手腕は確かなもので、
様々なジャンルの音楽を貪欲に吸収し独自のものにしている。

初期のプログレッシブ・ロック志向からカントリー・ミュージックへの傾倒、
さらにはアメリカン・ロック、ソウル、ディスコに至るまで、その音楽性は幅広い。
日本においてはバラード・シンガーとして認知されがちだが、
サービス精神旺盛な生粋のロックンローラーであり、
確かな技術に裏打ちされたパフォーマンスの評価は高い。

過剰なまでの派手な衣装も特徴的である(着ぐるみを着用していた時期もあった)。
ピアノの下に隠れての曲弾きや、
クライマックスでのピアノの上によじ登ってのゴリラ踊りを行うことも多い。

両性愛者であることでも知られる。
1984年にドイツ人の女性と結婚したが、4年後に離婚。
2005年には男性の恋人と再婚して大きな話題を呼んだ。
近年のグラミー賞授賞式では、
ゲイを揶揄するリリックを歌ったエミネムとパフォーマンスして物議を醸したが、
ジョンは音楽性が優れているアーティストに対して協力するのは当然と、意に介さなかった。
性格は繊細さと荒々しさを併せ持ち、長年自身の容姿にコンプレックスを持っていたとされる。
1970年代の前半頃から既に頭髪が薄くなりカツラを使用していたが、1990年代に植毛手術に成功。

21世紀に入っては視力矯正手術にも成功し、長年愛用していた眼鏡もオークションに出した。
現在は、それらを自らギャグとして披露してもいる。また、過激で辛辣な言動などから、常にゴシップでとりあげられる存在である。
一方では、取材に対して饒舌でもあり、舌禍事件を起こすこともしばしばある。
交友関係は非常に広く、数多くのミュージシャンのみならず、
デヴィッド・ベッカムをはじめとするサッカー選手などとも親交がある。
また、クラブチームを保有していた時期がある。

近年ビリー・ジョエルとは、頻繁に「ピアノマン」同士のジョイント・コンサートを行っている。
鉄道にも興味があるらしく[要出典]、東京へ行く際、関西国際空港へ降り立ち、新大阪から新幹線に乗ったことがある。
カルティエの野外パーティーで急な悪天候により、得意客たちがホテルへ引き返す事態になった際、
ホテルのラウンジにあったピアノでジョンが弾き語りを始めたことで険悪なムードが一変し、大変盛り上がった。
それ以来カルティエは、彼に頭が上がらないという。 好きになったひとに、カルティエの腕時計をプレゼントするのは、得意のアプローチ作戦である。

来歴

生い立ち

RAFの飛行中隊長だったスタンリー・ドワイトと妻シェイラの間に生まれた。
ドワイトは、彼の母親や他の親類の女性によって育てられ、父親といた時間はわずかであった。
スタンリーとシェイラはドワイトが15歳だった1962年に離婚した。
母親はその後フレッド・フェアブラザーと再婚し、ドワイトは義父をダーフという愛称で呼んだ。

4歳の頃から、ドワイトはピアノを弾き始める。
彼は神童であり、耳で聴いた如何なるメロディーも演奏することができ、
彼のピアノ教師によると1度聴いただけのヘンデルの楽曲を完璧に弾くことができたという。
11歳の頃に王立音楽院に合格し、職業としての音楽に専念するため、
卒業前に学校を離れるまで6年間在学した。
初期に影響を受けた人物には、ジム・リーブスなど。
ピアニストとしてはヨハン・ゼバスティアン・バッハやフレデリック・ショパンの演奏を得意とした。

デビューに至るまで

1960年に、ドワイトは友人とコルヴェッツというバンドを結成。
このバンドは、やがてブルーソロジーに発展する。
ドワイトは、日中は音楽出版社への売り込みに走り、
夜にはロンドンのホテルで単独でギグを行うか、ブルーソロジーと活動するかのどちらかであった。

1960年代半ばまでには、ブルーソロジーはアイズレー・ブラザーズ、メジャー・ランス、ドリス・トロイ及び
パティ・ラベル&ブルーベルズのようなアメリカのソウルやR&Bのミュージシャンのバックバンドとしてツアーを行った。
1966年には、バンドはロング・ジョン・ボルドリーのサポートミュージシャンとなり、
イギリスのキャバレーをまわるツアーに参加している。

ドワイトは、リバティ・レコードのA&Rマネージャーだったレイ・ウィリアムズによって、
ニュー・ミュージカル・エクスプレス誌に載せられた募集広告に応募する。

最初の面接でウィリアムズはドワイトに、
同じ広告に募集してきたバーニー・トーピンによって書かれた歌詞のストックを渡した。
ドワイトは歌詞に曲をつけ、これが今日まで続くパートナーシップの始まりである。

1967年に、彼とバーニー・トーピンとの最初の共作曲「スケアクロウ」が書かれた。
トーピンと出会って半年後に、
ドワイトは尊敬していたボルドリーとブルーソロジーのサックス奏者エルトン・ディーン
(のちにソフト・マシーンに加入し著名となる)の名にあやかり、
単独捺印証書によって自分の名前をエルトン・ジョンに改めた。

ジョンとトーピンのチームは、
1968年にディック・ジェイムズのDJMレコードにソングライターとして入社。
その後2年以上、ロジャー・クックやルルのような様々なアーティストに楽曲を提供した。
トーピンが1時間未満で歌詞を書いてジョンに渡し、ジョンは30分ほどでそれに曲をつけた。
すぐに何かを思いつくことができない場合は、歌詞を処分した。
こうして2年間、彼らはジェイムズが歌手に提供するイージー・リスニングを書いた。

違う音楽出版社のスティーヴ・ブラウンのアドバイスにより、
ジョンは彼自身が発売するレコードのために、トーピンと共により複雑な曲を書き始める。
最初の作品は、ブルーソロジーのギタリスト、カリブ・クエイがプロデュースした、
1968年のシングル「アイヴ・ビーン・ラヴィング・ユー」だった。
1969年には、クエイとドラマーのロジャー・ポープ、ベーシストのトニー・マレーと共に、
シングル「レディ・サマンサ」とアルバム『エンプティ・スカイ』を録音した。

これらは高い評価を得たにも関わらず、レコードの売り上げは芳しくなかった。
しかし、スリー・ドッグ・ナイトに「レディ・サマンサ」をカバーされたことによって、
にわかに注目を浴び始めることとなる。

ソロデビュー後も、
スーパーで売られる最新ヒットのカバーレコードで「チャートバスターズ」として名前を隠して歌ったり、
キング・クリムゾンやジェントル・ジャイアントのリード・ヴォーカリストのオーディションを受けるなどしており(共に不合格)、
この時期の活動にはまだ明らかでない部分がある。

1970年代前半
1970年、プロデューサーにガス・ダッジョン、アレンジャーにポール・バックマスターを迎えて制作した
セカンド・アルバム『僕の歌は君の歌(エルトン・ジョン)』がリリースされた。
全米では、アルバムに先がけて発売されたシングル「僕の歌は君の歌」のトップ10ヒットにならう形で売り上げを伸ばした。
ジョン・レノンをはじめとする数多くのミュージシャンが絶賛したこの曲は、
彼の初期の活動における代表曲として広く知られるスタンダード・ナンバーである。

クインシー・ジョーンズが絶賛したという彼の最初のコンサート・ツアーには、
元スペンサー・デイヴィス・グループのドラマーだったナイジェル・オルソンと
ベーシストのディー・マレーが参加した。
彼らは、ジョンが『僕の歌は君の歌』からわずか半年後にリリースしたアルバム『エルトン・ジョン3』でも演奏していた。
1972年からは、ギタリストのデイヴィー・ジョンストンがバックバンドに加わり、
彼の活動における黄金期を支えたラインナップが完成する。
同年のアルバム『ホンキー・シャトー』は、彼にとって初めての全米1位を記録した。
その後、1975年の『ロック・オブ・ザ・ウェスティーズ』まで、
彼は7枚のアルバムを連続で全米1位に送り込んだ。
本国のイギリスでも『ピアニストを撃つな!』が1973年度の年間チャート1位になるなど、
彼の人気は世界的なものとなった。
1974年には、所属していたMCA傘下にレコード・レーベル、ロケット・レコードを設立。
以降彼のアルバムはこのレーベルから発表された。

出典:画像、プロフィール:タレントデータバンク ウィキペディア goo

エルトン・ジョンElton John

出生名:Reginald Kenneth Dwight
生誕: 1947年3月25日(69歳)
出身地:イングランド ミドルセックス州、ピナー
学歴:王立音楽院卒
ジャンル:ロック、ポップス
職業:ミュージシャンシンガー・ソングライター,ピアニスト,作曲家編曲家,音楽プロデューサー
公式サイト:www.eltonjohn.com

エルトン・ジョン
エルトン・ハーキュリーズ・ジョン(Sir Elton Hercules John, CBE、1947年3月25日 )は、イギリスのミュージシャン、シンガー・ソングライター。
代表曲に、「僕の歌は君の歌」「クロコダイル・ロック」「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」「ダニエル」などがある。
出生時の名前は、レジナルド・ケネス・ドワイト(Reginald Kenneth Dwight)。
血液型 は A型。
最も売れたアーティスト一覧によると、
シングルとアルバムの総売り上げは、ビージーズやローリング・ストーンズ、ピンク・フロイドを上回る約3億枚。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第38位。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第49位。
「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第45位。
パートナーは、カナダ人映画監督、プロデューサーのデヴィッド・ファーニッシュ。

人物
1969年にソロ・デビュー。
1970年の「僕の歌は君の歌」のヒット以降コンスタントに活動を続け、
現在までに全世界で3億枚以上のレコード・セールスを記録した、
世界で最も成功した男性ソロ・アーティストの一人である。

作曲は彼自身によるものだが、
作詞は1968年のデビュー以降その多くを盟友バーニー・トーピンが手がけている。
芸名は、彼がソロ・デビュー前に参加したバンド、
ブルーソロジーのメンバーだったエルトン・ディーン(
Elton Dean、キース・ティペット・グループを経てソフト・マシーンに加入)と
ロング・ジョン・ボルドリー(Long John Baldry)の2人の名前から取ったものである。

1970年代前半に、人気は全盛期を迎えた。
1972年の『ホンキー・シャトー』以降、『ピアニストを撃つな!』(1973年)、
『黄昏のレンガ路』(1973年)、『カリブ』(1974年)、
『グレイテスト・ヒッツ』(1974年)、『キャプテン・ファンタスティック』(1975年)、
『ロック・オブ・ザ・ウェスティーズ』(1975年)が7作連続全米首位を記録し、
1975年には『キャプテン・ファンタスティック』で全米ビルボードのアルバムチャート史上初の初登場1位を記録するなど、
この時期に彼は数多くの快挙を成し遂げている。

当時、若手アーティストとしてギルバート・オサリバンをライバルとして認めた。
活動休止期間を経て、トーピンと一時期決別してからは不遇の時代が続いたが、
一方で1986年にはディオンヌ・ワーウィックらとのデュエット曲
「愛のハーモニー」で初のグラミー賞を受賞している。

1980年代後半から1990年代前半にかけては、
喉の病気やアルコール、薬物依存症などに苦しみながらも、
音楽活動と並行してチャリティーにも精力的に取り組むようになる。

1990年代前半からは復調し、映画『ライオン・キング』のサントラなど数多くの仕事で成功した。
1997年には、旧作の詩の一部を差し替え、
事故死したダイアナ妃に捧げたシングル「キャンドル・イン・ザ・ウィンド 1997/ユー・ルック・トゥナイト」が、
全世界で3,700万枚以上を売り上げるシングル史上最大のヒット曲となる。
この記録は、2015年現在も破られていない。
1998年2月24日には長年の功績を称えられ、ポピュラー音楽の音楽家としては3人目となるナイトに叙勲された。

彼の音楽性は、しばしば同様にピアノマンの異名を持つビリー・ジョエルと比較されがちだが、
メロディメーカーとしての手腕は確かなもので、
様々なジャンルの音楽を貪欲に吸収し独自のものにしている。

初期のプログレッシブ・ロック志向からカントリー・ミュージックへの傾倒、
さらにはアメリカン・ロック、ソウル、ディスコに至るまで、その音楽性は幅広い。
日本においてはバラード・シンガーとして認知されがちだが、
サービス精神旺盛な生粋のロックンローラーであり、
確かな技術に裏打ちされたパフォーマンスの評価は高い。

過剰なまでの派手な衣装も特徴的である(着ぐるみを着用していた時期もあった)。
ピアノの下に隠れての曲弾きや、
クライマックスでのピアノの上によじ登ってのゴリラ踊りを行うことも多い。

両性愛者であることでも知られる。
1984年にドイツ人の女性と結婚したが、4年後に離婚。
2005年には男性の恋人と再婚して大きな話題を呼んだ。
近年のグラミー賞授賞式では、
ゲイを揶揄するリリックを歌ったエミネムとパフォーマンスして物議を醸したが、
ジョンは音楽性が優れているアーティストに対して協力するのは当然と、意に介さなかった。
性格は繊細さと荒々しさを併せ持ち、長年自身の容姿にコンプレックスを持っていたとされる。
1970年代の前半頃から既に頭髪が薄くなりカツラを使用していたが、1990年代に植毛手術に成功。

21世紀に入っては視力矯正手術にも成功し、長年愛用していた眼鏡もオークションに出した。
現在は、それらを自らギャグとして披露してもいる。また、過激で辛辣な言動などから、常にゴシップでとりあげられる存在である。
一方では、取材に対して饒舌でもあり、舌禍事件を起こすこともしばしばある。
交友関係は非常に広く、数多くのミュージシャンのみならず、
デヴィッド・ベッカムをはじめとするサッカー選手などとも親交がある。
また、クラブチームを保有していた時期がある。

近年ビリー・ジョエルとは、頻繁に「ピアノマン」同士のジョイント・コンサートを行っている。
鉄道にも興味があるらしく[要出典]、東京へ行く際、関西国際空港へ降り立ち、新大阪から新幹線に乗ったことがある。
カルティエの野外パーティーで急な悪天候により、得意客たちがホテルへ引き返す事態になった際、
ホテルのラウンジにあったピアノでジョンが弾き語りを始めたことで険悪なムードが一変し、大変盛り上がった。
それ以来カルティエは、彼に頭が上がらないという。 好きになったひとに、カルティエの腕時計をプレゼントするのは、得意のアプローチ作戦である。

来歴

生い立ち

RAFの飛行中隊長だったスタンリー・ドワイトと妻シェイラの間に生まれた。
ドワイトは、彼の母親や他の親類の女性によって育てられ、父親といた時間はわずかであった。
スタンリーとシェイラはドワイトが15歳だった1962年に離婚した。
母親はその後フレッド・フェアブラザーと再婚し、ドワイトは義父をダーフという愛称で呼んだ。

4歳の頃から、ドワイトはピアノを弾き始める。
彼は神童であり、耳で聴いた如何なるメロディーも演奏することができ、
彼のピアノ教師によると1度聴いただけのヘンデルの楽曲を完璧に弾くことができたという。
11歳の頃に王立音楽院に合格し、職業としての音楽に専念するため、
卒業前に学校を離れるまで6年間在学した。
初期に影響を受けた人物には、ジム・リーブスなど。
ピアニストとしてはヨハン・ゼバスティアン・バッハやフレデリック・ショパンの演奏を得意とした。

デビューに至るまで

1960年に、ドワイトは友人とコルヴェッツというバンドを結成。
このバンドは、やがてブルーソロジーに発展する。
ドワイトは、日中は音楽出版社への売り込みに走り、
夜にはロンドンのホテルで単独でギグを行うか、ブルーソロジーと活動するかのどちらかであった。

1960年代半ばまでには、ブルーソロジーはアイズレー・ブラザーズ、メジャー・ランス、ドリス・トロイ及び
パティ・ラベル&ブルーベルズのようなアメリカのソウルやR&Bのミュージシャンのバックバンドとしてツアーを行った。
1966年には、バンドはロング・ジョン・ボルドリーのサポートミュージシャンとなり、
イギリスのキャバレーをまわるツアーに参加している。

ドワイトは、リバティ・レコードのA&Rマネージャーだったレイ・ウィリアムズによって、
ニュー・ミュージカル・エクスプレス誌に載せられた募集広告に応募する。

最初の面接でウィリアムズはドワイトに、
同じ広告に募集してきたバーニー・トーピンによって書かれた歌詞のストックを渡した。
ドワイトは歌詞に曲をつけ、これが今日まで続くパートナーシップの始まりである。

1967年に、彼とバーニー・トーピンとの最初の共作曲「スケアクロウ」が書かれた。
トーピンと出会って半年後に、
ドワイトは尊敬していたボルドリーとブルーソロジーのサックス奏者エルトン・ディーン
(のちにソフト・マシーンに加入し著名となる)の名にあやかり、
単独捺印証書によって自分の名前をエルトン・ジョンに改めた。

ジョンとトーピンのチームは、
1968年にディック・ジェイムズのDJMレコードにソングライターとして入社。
その後2年以上、ロジャー・クックやルルのような様々なアーティストに楽曲を提供した。
トーピンが1時間未満で歌詞を書いてジョンに渡し、ジョンは30分ほどでそれに曲をつけた。
すぐに何かを思いつくことができない場合は、歌詞を処分した。
こうして2年間、彼らはジェイムズが歌手に提供するイージー・リスニングを書いた。

違う音楽出版社のスティーヴ・ブラウンのアドバイスにより、
ジョンは彼自身が発売するレコードのために、トーピンと共により複雑な曲を書き始める。
最初の作品は、ブルーソロジーのギタリスト、カリブ・クエイがプロデュースした、
1968年のシングル「アイヴ・ビーン・ラヴィング・ユー」だった。
1969年には、クエイとドラマーのロジャー・ポープ、ベーシストのトニー・マレーと共に、
シングル「レディ・サマンサ」とアルバム『エンプティ・スカイ』を録音した。

これらは高い評価を得たにも関わらず、レコードの売り上げは芳しくなかった。
しかし、スリー・ドッグ・ナイトに「レディ・サマンサ」をカバーされたことによって、
にわかに注目を浴び始めることとなる。

ソロデビュー後も、
スーパーで売られる最新ヒットのカバーレコードで「チャートバスターズ」として名前を隠して歌ったり、
キング・クリムゾンやジェントル・ジャイアントのリード・ヴォーカリストのオーディションを受けるなどしており(共に不合格)、
この時期の活動にはまだ明らかでない部分がある。

1970年代前半
1970年、プロデューサーにガス・ダッジョン、アレンジャーにポール・バックマスターを迎えて制作した
セカンド・アルバム『僕の歌は君の歌(エルトン・ジョン)』がリリースされた。
全米では、アルバムに先がけて発売されたシングル「僕の歌は君の歌」のトップ10ヒットにならう形で売り上げを伸ばした。
ジョン・レノンをはじめとする数多くのミュージシャンが絶賛したこの曲は、
彼の初期の活動における代表曲として広く知られるスタンダード・ナンバーである。

クインシー・ジョーンズが絶賛したという彼の最初のコンサート・ツアーには、
元スペンサー・デイヴィス・グループのドラマーだったナイジェル・オルソンと
ベーシストのディー・マレーが参加した。
彼らは、ジョンが『僕の歌は君の歌』からわずか半年後にリリースしたアルバム『エルトン・ジョン3』でも演奏していた。
1972年からは、ギタリストのデイヴィー・ジョンストンがバックバンドに加わり、
彼の活動における黄金期を支えたラインナップが完成する。
同年のアルバム『ホンキー・シャトー』は、彼にとって初めての全米1位を記録した。
その後、1975年の『ロック・オブ・ザ・ウェスティーズ』まで、
彼は7枚のアルバムを連続で全米1位に送り込んだ。
本国のイギリスでも『ピアニストを撃つな!』が1973年度の年間チャート1位になるなど、
彼の人気は世界的なものとなった。
1974年には、所属していたMCA傘下にレコード・レーベル、ロケット・レコードを設立。
以降彼のアルバムはこのレーベルから発表された。

出典:画像、プロフィール:タレントデータバンク ウィキペディア goo

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